当社の歴史
寛永20年
1641年 会津松平家 藩祖 保科正之公が信州高遠より移封、初代林太左衛門光仁が武士として随身する。二代~三代藩政により町方となり、商業の発展、産業の振興など城下町の繁栄に尽くす。
宝暦6年
1756年 四代林平助光信は、城下に於ける信望と手堅い商法が認められ藩御用達を仰せ付かれ様々の物産を藩外に商うばかりでなく、三番蝋(公用外の蝋)の取り扱いを命ぜられ、次第に商人としての地歩を高めた。しかし会津は享保の一揆、城下町の大火、江戸城のお手伝い、普譜などが重なり会津藩も城下も次第に疲幣していった。(御用達とは藩財政の裏方)
 
天明7年
1787 年 松平家五代 容頌は、藩政の改革のため家老田中玄宰に命じ改革に着手。玄宰は、林光信に町方としての協力を委ねた。光信はこの趣旨に賛同し、会津物産を諸国に売ることを提案、自らも廻米船「永宝丸」を造り、北前船として藩に寄与(新潟寺泊・白山媛神社に絵馬が掲額してある)、産業の復興と藩政の立て直しに奔走した。(永宝屋を名乗る)
寛政4年
1793年 和右衛門は、酒造りを仰せ付かり、大阪鴻池家に協力を要請、摂津杜氏等を招き本邦初の藩御用達酒蔵として成功を治める。石高2000石に達したというこのころ、醤油、みその製造にも着手したといわれる。
 
寛政8年
1796年 五代林和右衛門は、御用達頭取に任じられ、知行454石を賜る。(町方としては全く異例のことである)上方への取引が大きくふくらむ。
安永6年
陶器の改良、有田焼(鍋島藩)の秘法を得る為、大阪布屋の協力で本郷の陶工を有田に潜ませ技法を手得、本郷焼を一躍高級品として位置づけた。他に、漆器の改良、絵師の育成などに尽力。
明治5年
維新にいたり材木町 林賢蔵が、本家永宝屋より、みそ、醤油部門を引き継ぎイゲタを名乗る。その後、品質の向上に力を注ぎ、会津方部はもとより、いわき地方、米沢方面に進出。特に入山炭田(常磐炭鉱)一帯で声価をあげる。
大正7年12月16日
林合名会社設立。商品の改良と開発に力を注ぎ、その良さが次第に世間に認められ、仙台方面に進出。昭和に入り、うすくち醤油の開発に成功、次第に販路は拡大し青森まで辿りつき戊申の役後、会津藩が移封された斗南の地浅虫、大湊を中心とする下北半島まで拡大し、東北の雄としての地歩を築く。
 
昭和13年
醤油は、陸軍御用となり、生産販売ともに増大し会社大いに栄える。
昭和18年
帝国陸軍により軍用機の献上を命ぜられる。代表社員林健次郎は、大いに苦労し資金を調達、戦闘機「隼(はやぶさ)」を献納、第6231号林合名第一と命名され、太平洋戦争の渦中に飛び立つ。
昭和22年
食糧管理統制令が施行され、配給原料が減ぜられ生産量が縮小される中販路は、会津、浜通り、新潟の下越、中越と厳しく限定され販売量は減少。先の戦闘機の後遺症もあり、次第と経営上行き詰っていく。
昭和28年
食管法の一部廃止に伴い醤油販売競争は一段と激化、わが社も仙台、青森ルートを確保。
 
戦闘機 愛國第6231(林合名第一) 陸軍省
昭和30年
統制時代に食品日用品販売の為設立された商業協同組合が、次第に時代のニーズにより取り残され倒産や解散が続き、わが社も販路を閉ざされる状態になる。
昭和40年
販路拡大の営業努力を続ける中、COOP福島県生協連と取引成立。僅か数年で消費者組合員の圧倒的支持を受け、日本生協連との取引に発展。COOP会津みそは全国にひろがる。全国版として「コープ会津みそ」の市場が確立、醤油の売り上げをしのぐ勢いとなった。
昭和50年末~60年代
COOPみそが縮小する中、醤油に東北各地の大手問屋、量販店との取引が成約、みそとは逆に出荷量が大幅に伸びだした。
平成~
調味醤油「彩」の開発に成功。味の良さから口コミで急速に売り上げを伸ばし始めた。このころ、自然食、健康食の開発に成功。関東方面に進出、順調に推移。現在は「食の安心、安全」に最大の留意を払いつつ、品質の改善、新商品の研究、開発に全力を挙げ、会社の発展に努力している。
醤油の歴史
わが国固有の優れた調味料である「しょうゆ」の歴史は、まず「醤」に始まります。醤には、魚などをすりつぶして塩漬けにした「魚醤」をはじめ、果実・野菜・海藻などを使った「草醤」、米・麦・豆などから作られる「穀醤」があり、弥生時代には保存食として造られていたといわれています。奈良時代の大宝律令の食制では、大膳職の中に醤の製造を受け持つ部門もあり、また諸国からの納品の中にも醤鼓、未醤の名が認められています。平安時代には、平安京の東西に建てられた市のうち、東市には醤店、西市には味噌店が設けられたと言われています。
鎌倉時代に入り禅僧確心が中国の宋に渡り、経山寺味噌の製法を紀州の湯浅地方に伝えました。その製法過程の中で樽底にたまった液汁が、醤油の親戚とも言える「溜」のはじめてと言われ、それは現在の溜醤油に近いものだったようです。室町時代になって書かれた「易林節用集」には、はじめて「しょうゆ」の文字があらわれます。そして、江戸時代に入って、工業的に大量に造られるようになりました。西鶴の「日本永代蔵」には大津のしょうゆ屋喜平次が描かれ、近松門左衛門の「曾根崎心中」の主人公徳平衛は、しょうゆ屋の手代という設定になっておりその発達のほどがうかがえます。けれども、当時のしょうゆはまだまだ一部の人々だけの高価なものだったようです。とは言え、この頃から商品として一般的に売られるようになったのでした。
会津の歴史
大和朝廷は全国統一に乗り出し東征軍を興し、紀元前88年、 時の崇神天皇は四道将軍を派遣して国々を鎮定した。この時北陸地方から進んだ大彦命と東海地方から進んだその子武淳河別命のお二人がこの地の湖の辺りで巡り合われたと云うことで「相津」の名が付けられ、後に「会津」と改められました。会津はその後肥沃な土地と気候から農耕が発達し、一方で高寺や慧日寺にみられるように仏教文化が栄えた。武士の時代に入ると会津は交通の要所であり、四方山に囲まれた自然の要塞であり、また豊饒な土地柄から東北の護りとして優れた武将が領主となった。鎌倉時代には芦名氏、戦国時代には伊達政宗、蒲生氏郷、上杉景勝、蒲生秀行、加藤嘉晃そして徳川幕府も安定した寛永20年、三代将軍家光の弟、保科正之が23万石で移封」された。二代目以降松平姓となり、代々徳川家の親藩として幕政の中枢として活躍したが、九代藩主松平容保は幕末、京都守護職として王城の神護と京都の治安にあったが、尊王攘夷派と対立することとなり、1868年西軍に大挙して攻められ、会津藩は降伏を余儀なくされ天下の名城「鶴が城」は敵方に開城された。
この時燃える街並みをお城の炎上と思い自刀した15 ~17歳の白虎隊士や薙刀を持って敵に立ち向かった娘子軍のことは後世に語り継がれている。天下の名城「鶴が城」はこの戊辰の戦いでは残ったが、明治9年陸軍省の命により取り壊しとなり、石塁と濠を残すだけとなった。現在ある天守閣は昭和40年に再建されたもので、悲劇の象徴とも云われるが、往時の偉容を偲ばせており、市民の心の象徴となっている。
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